コンパニオンドール
< BACK序章 八年目の春の風 0-7
盛大な拍手がわたしを包む。ありがとうございます、と。それだけを言って頭を下げた。番場部長が、何度も大きくうなずいていた。克也とわたしの経緯(いきさつ)を知っていて、それでも今日は、気持ちよく送り出してくれている。
何度も何度も、異動願いを出し続けた。握りつぶされ、それに気づいても他の方法はみつからなくて。ただ、しつこく出し続けた七年間。
でも、きっと無意味ではなかった。この歳月があったからこそ、わたしは「執念」を認められて、異動できた。
「永井さん、これ」
帰り際に、背後から声をかけられて、見るとランチを一緒にしていた秘書や事務係の仲間達数人が並んでいた。
真ん中にいたのは後任の秘書で、この一ヶ月間、毎晩遅くまでの引き継ぎにも、愚痴ひとつ言わずに頑張ってくれた頼もしい女性だ。彼女は、背中に隠し持っていたものを、恭(うやうや)しくわたしに差し出してきた。寄せ書きされた色紙だった。
「わたしに?」
「はい。永井さん、いつもキビキビとした振る舞いが格好よくて、憧れでした。センターに行っても、頑張ってください」
入れ替わり立ち替わり押し寄せて、並んでいた仲間達が激励してくる。
「センターの人達に、営業所の人間の根性見せてやってくださいね」
「格好いい人がいたら、紹介してください。 合コンのセット待ってますから」
口々にキャアキャアと、送る言葉をくれる彼女達。わたしは、自分がセンターに異動することばかりを考えていて、いつもイッパイイッパイで……。親身な態度なんかとっていなかったと思うのに。
「先輩、負けないで。みんな応援してるから」
今更になってやっと、この職場で大切にされていたんだと、気がついた。一人ひとりと握手して、別れを告げた。
私物をまとめ、退社する。ロビーを出ると振り返った。まだどの窓も煌々と明るい。営業所のフロアーは、あのあたり。視線でたどり、視線は次第に足元に落ち、いつしかビルに向かって頭を下げていた。
――七年間、ありがとう。
素直な気持ちが言葉になった。
駅に向かいながら、スーツのポケットから克也に渡されたメモを取り出した。
Bar ヴィント 十九時 K
Bar ヴィントは、駅の反対側。裏小路にある目立たない店で、克也とわたしのデートの定番だった。そこで十九時に会おうという。十九時なんて、この手の店としては早いので、店内はガラガラに空いていた。
カウンターで、すでに来ていた克也が一人、飲んでいた。
「やぁ、来てくれたね」
「来ないと思った?」
「まさか。こんなにいい男が、呼び出してるんだぜ」
薄暗がりだけれど、克也の目は、やっぱり優しい。
「花束……。ありがとう。嫌われたと思ってたから、嬉しかった」
「嫌う? まさか。俺、プレゼンターは強引に立候補したんだぞ」
「部長への報告は、大丈夫?」
「ああ、延期になったって伝えといた」
「延期ぃ~?」
「はは、冗談だよ。ちゃんと報告してある」
克也を、思いっきり睨んでやった。でも、いつものような、キザで軽い口調が心地いい。緊張をほぐしてくれる。
「これ、会って渡したほうがいいかなと思って」
克也が差し出したのは、わたしのマンションのスペアキーだった。わたしの手がためらって、カウンターの上で止まっている。
「ほら、返して欲しかったんだろ」
克也はキーをカウンターに置くと、わたしの方に押し出してきた。ライトに照らされて、キラキラと輝く金色のキー。
「受け取らないと、また持って帰るぞ」
その言葉に促され、わたしはキーを手にとった。
見あげると、克也は少し淋しそうな顔をしていた。
「センターなんか、イヤになったらいつでも戻って来い。そのときまだ、俺がフリーだったら拾ってやるよ」
「無理。克也が女なしで一週間もつとは思えない」
「今のところ、他の女は抱いてないぞ」
「抱いていいよ。他の女の子」
克也の眉間が、少し動いた。
「……お前は?」
「わ……、わたしはもう、売約済み」
鍵をもてあそびながら答えた。
「なんだそれ。いつの間に男つくったんだよ」
「子供の時から、大好きだった男性がいるの。わたしの心の支えなの」
「へぇ~」
「身の丈三十センチのね、正義の味方クン。毎日一緒に寝てたのよ」
「なんだ、人形か」
「ロボット。喋るのよ、上手に。わたしの恋人、ロボットなの。今はもう、いないけど」
顔をあげた。自然と力が漲(みなぎ)ってきた。
「ねぇ。わたしはセンターに、彼を探しに行くのよ。絶対にみつける」
「そうか。お前の恋人、ロボットか」
かなわないな、というように、克也の手がわたしの頭をポンポンっと優しくたたいた。
「人間の男が欲しくなったら連絡しろ。元気でな」
克也は、グラスの下にお札をはさみ、背中を向けた。
彼が出て行くのと入れ替わるように、若いカップルが店に入って来た。バーテンが、おしぼりをタイミングよく差し出す。夜はまだ、これからなのだ。
ガラス窓越しに、ネオンに溶けていく克也が見えた。大股に、まっすぐに歩いていった。
ごめんね。克也。
でも、わたしはわたしの道を行きたい。
わたしもひとり、店を出た。
強引に、夢を追いかけ、多くの人に迷惑をかけた。番場部長、秘書の仲間、そして克也……。みんなの暖かい心に赦されて、わたしは夢をつかまえた。
急に、風に頬をなぶられた。生暖かくて、どこか甘い。
八年目に……とうとう吹いた春の風。
全身で受け止めながら、わたしも背筋を伸ばして駅に向かった。
序章 八年目の春の風 了