コンパニオンドール
< BACK1章 桜の下で君がみつめる 1-2-14
「随分年下のカノジョじゃない。好み、変わった?」
失礼な闖入に腹が立ち、少し嫌味な口調で指摘すると、克也は急に真顔になった。
「彼女、一応社会人だよ。番場久美子さん。部長のお嬢さんだ」
――番場! そっか、見覚えがあるはずだ。
毎年のソフトボール大会には、部長のご家族も参加していた。
「戻るよ。邪魔したな」
克也は背中ごしに片手をあげると、心細げな女性のもとへ戻っていった。
一週間、女なしではいられない男。次から次へと浮名を流し……。
番場部長のお嬢さん――遊びでは、すまない相手だ。
手元だけを見て、ぐいぐいとビールを飲み、蕎麦をすすった。
「すみません。希(のぞみ)さんのお知り合いに、失礼な態度をとってしまって」
まとまらない思考を中断させたのは、申し訳けなさそうな声だった。
「どっちが。むこうの方がよっぽど失礼。いまどき、人の肌が何色だって、いいじゃない! 大切な、わたしの環(たまき)に何言うんだって感じよ!」
「……ありがとうございます」
環(たまき)から、すっかり不穏な空気は消え、普段の環(たまき)に戻っている。わたしも少し落ち着いて、いつものペースで食事を進めた。
食べ終わった頃、克也がお手洗いに立つのが見えた。わたしもあわせて席を立つ。さりげなく追いかけて、フロアからは陰になる位置で、出てくるのを待ち伏せた。
「克也、さっきの態度、何?」
正面に立ちはだかったわたしに、克也は驚きもせずに笑みを浮かべた。
「いや、悪い。ちょっと動揺したもんだから。ついイジワルした。謝る」
「うん、わたしはいいけど。彼に黒いご子息はないんじゃない? 克也らしくないよ」
「希(のぞみ)……」
絞り出すような声だった。
「何? どうしたの?」
「いや、わかってはいるんだ。お前のこと、何も知ろうとしなかった俺も悪かったんだって。番場部長から、少し聞いた」
「な、何聞いたのよっ!」
つい、声が大きくなり、口元を自分で押さえた。
「お前、家庭が怖いって言ったよな」
うなずかず、克也をひたと、睨み返した。
「思いもしなかったんだ。家庭とか家族とか、そーいうのを信じられない環境に育って、苦しんでいたって。女は誰でも、守ってやる、家庭に入れと言ったら無条件に喜ぶもんだと思っていた……バカだったな」
いつもは自信満々の克也が、しょげた子供のような顔をしている。苦笑した。
「やっと笑ったな」
「……まぁね」
「あぁ、部長を責めるなよ。俺が無理やり聞きだしたんだから」
「いいよ、もう。わたしも克也に都合のいいことだけ期待して、甘えてた」
そう。克也がわたしに「ものわかりのいいオンナ」を期待していたように、わたしも自分が寂しいときだけの「都合のいいオトコ」を克也に求めた。お互い様だ。
それに多分、克也が知ろうとしてきたなら、その時点でわたしは、克也を切った。所詮、わたしはそーいう女だ。人に心は、開けない。
「わたしこそ、ごめんなさい」
克也はうなずくと、声のトーンを少し落とした。
「あのお嬢さんな、部長から勧めてくれたんだ」
「そう」
「彼女が断らない限り、俺からは断らない。だからもう……」
途切れた言葉のその先は、容易にわかった。
――人間の男が欲しくなったら、連絡しろ。
それは、もう無い。連絡は不要だと、言っているのだ。彼は、次のステップに踏み出している。
「おめでとう」
克也が、小さなため息をついた。
「ちょっと妬いたよ。アイツに」
「環(たまき)……須藤君に? 縁があって『弟』になってもらってるだけ。きょうだいごっこなの」
「バカ。ひとつだけ最後に忠告しておいてやる。あいつのお前を見る目な。オスの目だぞ。俺と同じ。その気が無いなら、やめとけ」
「…………」
「まぁ、お前がシアワセになれるんなら、何でもいいけどな」
克也が、一歩わたしに近づいて身をかがめた。目の前に、顔があった。
「あいつには、内緒な」
そう言うと、克也はわたしの唇に、軽く触れるか触れないかのキスをした。
「パイ、希(のぞみ)」
「バイバイ、克也」
克也の背中を見送って、わたしはゆっくり席に戻った。
「お待たせ。帰ろうか」
もう、環(たまき)もわたしも食べ終わっている。レジに向かった。支払いは割り勘。背中に遠くの席からの、視線を感じた。きっと気のせい。暖簾(のれん)をくぐり、蕎麦屋を出た。
人の流れを縫いながら、駅をめざした。唇に、まだ余韻がまとわりついている。一抹の寂しさと……安堵感。
番場部長のお嬢さん。縋るように、克也を見ていた。彼女なら、克也が望む温かい家庭を築けるのだろう。
店の方を振り返った。キラキラと輝くネオンに紛れ、もうその位置はわからない。
克也。わたしたちの道は、もう交わらない。それでも……今日、会えてよかった。
雑踏の中で、ふいにわたしの右手がとられた。
大きな手に、掴まれていた。驚いて見あげるわたしに、環(たまき)が憮然とした顔のまま言った。
「泣いたら、いい女がだいなしです」
「うるさいっ、泣かないわよっ」
頭上から、心配そうな顔がのぞきこんでいる。
「……ありがとう」
わたしから、彼の手を握り返した。
ありがとう。今日一日、わたしの勝手につきあってくれて。
わたしの寂しさにつきあってくれて。
「環(たまき)。ごめんね。気を遣わせて」
「希(のぞみ)さんのおかげで、とても良い一日でした」
隣を歩いてくれる存在に、心から感謝した。
そろそろ遅い時間になっていたのに、M市駅からジャルスに向かうシャトルバスには、ポツポツと人が乗っていた。彼らは多分、わたし達と同じ寮住まいの人。広大な研究センターの敷地の中にも、人の暮らしが息づいている。
バスの中で、環(たまき)のリストホンが着信を知らせた。メールではない。電話の着信を知らせる音だ。
環(たまき)は、画面を見つめると、眉間にハッキリとたてじわを刻んだ。彼が、露骨に表情を険しくするのは珍しい。
「電話、出ていいよ」
「いえ」
彼の操作で、リストホンはすぐに黙った。マナーモードに切り替えたようだ。
門から寮までの十五分。環(たまき)は一言もしゃべらなかった。妙に冷たい空気が流れる。多分、さっきの電話のせいだ。
友達だろうか? 友達をないがしろにするタイプには見えない。
仕事関係? 生真面目な環(たまき)なら、必ず出る。
実家かも。彼の家庭環境は、複雑だ。須藤家からの電話なら、こういう態度もあるのかもしれない。
「明日は……」
環(たまき)から切り出してきた。寮がすぐそこに見えていた。
「一日、用事が入ると思います」
沈んだ声だった。
「わかった。わたしのことは気にしないで。一人で食べるから」
「すみません」
寮に着くと、言葉少なく解散した。