コンパニオンドール
< BACK序章 八年目の春の風 0-6
入社時に事務系の合同研修で親しくなった、佐々木ゆかりに電話した。彼女は研究センターにいる。でも、職種は秘書だ。
本人は工業デザインがやりたくて、その方面の大学を卒業したのに、秘書になってしまったとこぼしていて、わたしとは気が合い、時折りメールを交わしていた。
新卒の同期なので、彼女もわたしと同じ年齢だ。理系の大学を出ているし研究センター勤務だから、文系卒で営業秘書のわたしよりは、有利なはずだった。でも、いまだに希望は叶っていない。彼女も、そろそろ異動希望を出し続けるのは辛くなる頃だ。
わたしだけが夢を叶える。少しの誇らしさと、申し訳けなさと……。
センターに行けば、必ず会う。彼女を、友人として失いたくない。だからこそ、今回の異動を彼女には隠したくなかった。
「もしもし、永井ですけど」
「あら、希(のぞみ)? いいところに電話してきた」
「いいところ?」
「そうよ。わたしね、あなたにぜひ、話したいことがあるの」
「えーっ、何?」
「電話をかけてくれたあなたから、先に話してちょうだい」
つばを飲んだ。
「……じゃあ言う。わたし、四月一日付で研究センターに異動になった」
「嘘っ! 配属はどこ?」
「広瀬研究室」
受話器のむこう、息を飲む気配がした。
「ごめん。ひと足お先に、夢を叶えさせていただく」
「残念でした。お先、じゃないわよ」
――え?
「信じられない。こんなことってあるのね。わたしも、四月一日付で技術職に職種転換して異動なのよ。しかも仮配属は広瀬研究室!」
耳を疑った。広瀬さんの言葉がよみがえる――あなたと同じように、技術職以外の職種から職種転換で異動してくる人たちがいます。
ゆかりも、その中に入っていたんだ。
「今回、研修クラスのアドバイザーが広瀬研究室から出るせいで、異動研修を受ける人はみんな、いったん広瀬研究室で預かるみたいよ」
「じゃあ、わたしに話したいことって……」
「そう、異動の話よ。ふたりともだなんて奇跡だわ。やった!」
「いつ、決まったの?」
「ついさっき。所属長から内示が出た。もう、これは誰よりも先に希(のぞみ)に連絡しなくっちゃと思ってたところに、この電話をもらったのよ。びっくりしたわ」
嬉しそうなゆかりの声が、わたしの胸のつかえを崩す。自分だけが夢を叶える疾しさから、解放された。この巡りあわせに、感謝した。
「……合宿研修でしょ。同じ部屋になるかな」
「希(のぞみ)は営業所だから知らないでしょうけど、センターの寮は個室。わたしも実際に見たわけじゃないけど、結構設備はいいらしいわよ。おしゃべり、たくさんしましょうね」
しばらくふたりで盛り上がり、電話を切った。すべてが新しい道に向かい、動いている気がする。もう、後戻りはない。はやる心をなだめながら、日々を過ごした。
最終日、始業のチャイムが鳴った。
いつものように仕事する。といってもほとんどは、後任の秘書に引継ぎ済みだったので、わたしがやることは、もうあまり残っていない。
電話と人の出入りの喧騒でバタバタしている営業所も、落ち着いて眺めてみれば感慨深い。今更ながらに、愛(いと)しく感じる。
――この会議室。このコピー機。給湯室。この倉庫。
みんな今日が、最後なんだ。
やがて定時のチャイムが鳴ると、番場部長が周囲に声をかけた。
「ちょっと集まってくれ」
わらわらと、営業所の人たちが集まってくる。みんな何事なのか、もう十分に知っている。部長はわたしを隣に立たせ、言葉を続けた。
「みんなも知ってのとおり、秘書の永井君が研究センターに異動となりました。しかも、今度は専門職。長年の夢を叶えての転出です。気持ちよく送り出してあげましょう」
パチパチと拍手が鳴る。人の輪の一角が崩れ、その奥から大きな花束を持った男性が現れた。克也だった。思わず……のどの奥からこみあげてくるものがあり、目を伏せた。
克也はソツのない「送る言葉」を述べ、花束をわたしに差し出した。
顔をあげて克也を見つめた。彼は、プライベートなときだけに見せる、いつもの優しい目をしている。泣きそうになった。
――こんなところで泣いたら、変に思われる。
必死で堪えた。
花束を渡されたとき、わたしの指に、何か紙切れのようなものが差し込まれた。まわりは誰も、気づいていない。克也が、目立たぬようにウィンクした。