自作小説(一次創作) | 読書感想 | 雑記

コンパニオンドール

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1章 桜の下で君がみつめる 1-1-11

――なっ、何?
 見上げると、あの無愛想な顔が空のコップを持って立っていた。
「何だぁぁ?」年配のほうが、顎を突き出して凄んだ。。
「このバカ! 拭くもん、持ってこい」年下氏も怒鳴る。
 凄まれても、まるで動じていないアドバイザーは、無言で虎達の手を、わたしから剥がした。褐色の手の、流れるような動きが優美だ。場にそぐわない。でも、虎が痛そうに顔をしかめたから、多分かなりの力を入れている。
 反撃に立とうとした虎の額を、アドバイザーは柔らかく押さえた。まるで、子供の熱を測る母親のように優しい動きに見えたのに、押さえられた途端、虎はソファに深く沈んだ。

 目が合った。相変わらず、カメラのレンズのように冷淡な目。彼の手が伸びてくる。腕を取られ、引き起こされた。次いでテーブルとソファの間に入ってきて、わたしをひきずり出してくれた。
「おい、貴様ぁ、何すんだよ」
「永井さんは、カウンターのほうで手当てさせていただきます」
 丁寧だけれど、感情を一切含まない言葉に気圧されたのか、虎達の動きが束の間、止まった。アドバイザーが、行きましょう、と促してくる。でも、膝の震えが止まらなくて、足が出ない。
――やだ。震え、止まれ。
 すくんでいると、腕を再び彼に取られた。
「行きましょう」
 彼が歩きだすと、わたしの足は震えていたのが嘘みたいに、前へ出た。
 厨房のそばのカウンターまで来ると、手を離された。腕に感触が残っている。痛くはなかった。慎ましやかで、なのに力強い引き方だった。

 カウンターの上に、お絞りが何本かロールにして積み上げられている。彼はそのうちの一本を取ると、わたしの前に差し出してきた。
「失礼しました」
「いえ……」
「もっと早くに気がつくべきでした。申し訳けありません」
 頭を下げたアドバイザーに、はっとした。あの水、わざとだ。
 わたしの心中を読んだのか、彼は肯定するように目を伏せた。

「ありがとう……ございました。わたし、あんなに見えにくい席にいたのに」
「姿が見えないようでしたから」
「そっか」
 かすれた声で、やっと応えた。彼は、探してくれていたんだ。そう言えば、寮でも最後まで見守っていた。

 ブラウスを拭く。それからスカート。不意に、このスカートの中で、おぞましく動いたものの感触が甦る。背筋がザワリと逆毛だった。
 怖かった。いい年齢(とし)をして、男性経験だってないわけじゃないのに。あんなにも怖かった。まるで金縛りに遭ったみたいで、声さえもあげられなかった。
 今更のように、喉が強張り震え始めた。マズい。嗚咽がこぼれ出ないように、唇を強く噛みしめる。持っていたお絞りに、爪が食い込む。お絞りが、もう一本差し出された。

 お絞りは持っている。もう服も拭いた。なのになぜ? と躊躇っていると、差し出されたお絞りが、頬にそっと触れてきた。
――温かい
 当てられたお絞りに手を添えると、彼は手を離した。
――もしかして。
 目尻を指で拭った。ようやく、自分が泣いていたことに気づいた。
 温かさに縋りつくように、お絞りを両目にぎゅっと押し当てる。そこから血がゆっくりと流れだす。少しずつ強張りが解けていく。その姿勢のまま、喉からこみあげてくるものが下がるのを待った。

 やっと落ち着いて、お絞りから顔を離したとき、彼はまだ、わたしの傍らに控えていた。すっかり存在を忘れていたから、気まずい。目が合うと、お友達のところに戻りますか? と聞いてきた。
 漆黒の大きな瞳が、わたしを見ている。相変わらず、監視カメラのように見える。でも、多分この目は、わたしのことを心配している。
 うなずくと、ゆかりのそばまで付き添ってくれた。談笑していたゆかりが気づいて、いらっしゃいよ、と手を振ってくる。彼女の周囲が明るくて遠い。
 背中を、そっと押し出す力を感じた。あ、と思ったときには、口数の少ないアドバイザーは、他のテーブルのお酌に向かっていた。

 ゆかりは、わたしを迎えるなりニヤニヤとしはじめた。
「どうしたのよっ。環(たまき)君にエスコートなんかされちゃってぇ」
「そ、そんなんじゃないわよ。ちょっと別のテーブルで絡まれてて、助けてくれただけ」小声で答えた。
「へぇ~、結構ナイトじゃ……っ」
 彼女は、わたしの顔をのぞきこむと、自分の口を指先で押さえた。
「ごめん、茶化して」
 泣いた痕跡でもあったのかもしれない。マスカラでも、崩れていたとか。指先で目元を拭い、もう大丈夫だから、と応えると、ゆかりの手が、わたしの肩を優しく包んだ。周囲の人たちが、椅子を詰めて座らせてくれた。

 彼女、どうしたの。大丈夫? と聞いてくる同席の人たちを「ほら、今日は初日だから緊張して疲れちゃったのよ。ね?」なんて言って、うまく捌いてくれたのもゆかりだった。ウーロン茶あるよ、と言ってくるのは、正面に座ったぽっちゃりメガネの先輩氏。新しい小皿にお料理を取り分けてくれたのは、ゆかりの隣に座った開襟シャツの先輩氏。同じ宴会の中なのに、この席はこんなにも穏やかだ。

 ようやく落ち着いて、何とか会話にスムーズに混ざれるようになった頃、離れたところから、巻き舌な怒声があがった。虎が棲息している方向だ。恐る恐る首を伸ばすと、アドバイザーが虎達に捕まっている。
――わたしのせい?
 片方の虎が立ち上がると、アドバイザーの襟首を掴んだ。なぜだろう。さっきの鮮やかなあしらいとは打って変わって、彼はまったく無抵抗だ。
「ヤダ、ちょっと。アレ」
 ゆかりも気づいて指をさす。
 ちょうど顔を見せた渡邊さんも、わたし達の視線の先の様子に気がつき、足を止めた。
「ヤバいな」
 座らずに、そのまま不穏な現場に走る。でも、渡邊さんが辿りつく前に、パンっと大きな音がした。アドバイザーが、無防備に殴られていた。

――あンの、酔っ払いっ!
 カッと血が上った。アイスペールを鷲掴みにして立ちあがる。
「希(のぞみ)、ストップ!」
 袖を引っ張ったのは、ゆかりだった。
「あなたまで行くとややこしくなる。渡邊さんに任せよう」
「だって! 暴力じゃないっ! 見たでしょ、彼、殴られたのよ」
「希(のぞみ)っ!」
 ゆかりは、わたしの目を見てから、周囲に顔を向けた。皆、険呑な空気に気がついていて、固唾を飲んで見守っている。何人かが、続けざまに立ちあがった。多分、渡邊さんの加勢に行く。
「ね、あなたが出る場面じゃないでしょ」
 掴んでいたアイスペールを、ゆかりに取りあげられて、腰をおろした。
――不思議。さっき、自分がヤられていたときは、全然動けなかったのに。

 渡邊さんが、虎とアドバイザーの間に割って入った。ペコペコと頭を下げて背中を叩き肩を組み、虎をソファに座らせた。後から追いかけた三人に、大丈夫、とでも言うように手を振っている。三人は、渡邊さんに任せておけば大丈夫だ、と判断したのだろう。虎をたしなめる素振りを見せてから、それぞれの席へ戻っていった。渡邊さんが、お酌を始めた。
――まだ飲ませるのか。
 いっそのこと、これ以上暴れないように潰しちゃおう、という魂胆かもしれない。
 アドバイザーは、殴られたことなどなかったかのように、渡邊さんにお辞儀をして場を離れた。

「環(たまき)君」
 呼んだのは、ゆかりだった。アドバイザーは、ゆかりを、そしてわたしを見るとうなずいてテーブルに来た。
 殴られたはずの頬を見る。褐色の肌だからわからないけれど、多分腫れてる。すごい音だったもの。これからきっと、もっと腫れる。
「見られてしまいましたね。ご心配かけて、すみません」
 彼は頭を下げて、わたしの向かいの席に座った。

「……ごめんなさい」殴られたのは、多分、わたしを助けたから。
「大丈夫です。たいしたこと、ありません」
 遠慮も気負いもない声が、返ってきた。
 テーブルの上にお絞りをひろげ、アイスペールから出した氷を包んだ。冷えたお絞りを、彼に差し出す。
「叩かれたところ、冷やさなきゃ。はい、自分で持って」
「いえ、大丈夫です」
「冷やしてっ! 腫れるわよっ」
 つい地金が出て、キツい口調になった。慌てて、ごめんなさいと付け足した。
 アドバイザーが、驚いたように目を瞠っている。初めて、彼の生身らしい表情を見た。
「心配、してくれているのですか」
「当たり前でしょ!」
「ありがとうございます」
 褐色の長い指が、わたしの手からお絞りを受け取った。
「さっきと逆ね」
「逆?」
「お絞り、今度はわたしから」
 笑いかけると、人形の顔が目を細めた。
 まるで、はにかむ少年に見える。ドキリとした。

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