コンパニオンドール
< BACK1章 桜の下で君がみつめる 1-1-18
「永井さん、呼びましたか?」
「ごめんなさいっ。何だか大きな物音がしたから……」
喋る声が、思いのほか廊下に響く。慌てて彼を部屋に入れ、扉を閉めた。
「さっきのこともあるから、また具合が悪くなったのかと心配になっちゃって。ホント、ごめんなさいっ」
「そうでしたか。こちらこそ、ご心配をおかけしました。物音への配慮が足りませんでした」
相変わらず、喜怒哀楽のうかがえない顔。でも、何となくわかる。さっきのような緊迫感が、今は無い。彼がまとう空気は、穏やかだ。
「風が……」言いながら窓を見た。外では背の高い木のシルエットが、梢をせわしく躍らせている。
「確かに、今日は風が強いですね」アドバイザーも、窓を見つめた。
「桜、散っちゃうわよね」
つい、脈絡もないことを口にしていた。
「永井さんは、さきほども桜を見たがっていました。お好きなんですか?」
「大好きってほどではないんだけど。営業所にいたときは、毎年みんなで近くの公園に、大挙してお花見に繰り出してたの。でも今年は異動のための引継ぎで忙しくて参加できなかったから、ちょっと悔しくて」
「では、散らないうちに、見に行きましょうか」
突然の申し出だった。
「今から?」
「はい。敷地内公園の一角に、桜が見事なところがあります。永井さんさえ、よろしければ、ご案内します」
「嬉しいけど……須藤君こそ、身体はいいの?」
ついさっき、彼は具合が悪くなって先に部屋に引き上げた人だ。
「はい、大丈夫です。少し待っていてください。上着を取ってきます」
いったん出て行った彼は、すぐにジャケットを羽織り戻ってきた。わたしもコートを羽織り、彼とともに部屋を出た。
薄暗い廊下を歩く音が、パタパタ響く。一階におりてロビーを出ると、湿度が高く甘い夜風が吹きつけてきた。昼間、正門の前で気づいた香りと少し似ている。いかにも春らしい、気持ちを高揚させる匂いだ。
公園の遊歩道のような小道に出た。はるか上空を、ゴウっと風が渡っていく。街中では感じられない、自然の息吹に身がすくんだ。
前を行く大きな背中について歩く。いきなり手が差し出された。
「この先は、暗くて足元が悪いですから」
まるで下心のない能面顔が、頼もしく見える。ありがとう、と彼の手を取ると、しっかり握り返された。指先が……ドキドキする。
寮の背後の中庭を抜けると、常夜灯の明かりは遠くなり、闇が濃くなる。敷地内公園との境の植え込みに当たった。門は無い。どうするのかと見ていたら、アドバイザーは躊躇わずに、植え込みの隙間に身体を滑り込ませた。その先に、細い踏み跡が続いている。知る人ぞ知る、けもの道らしい。
部屋から持参した懐中電灯で、足元を照らしながら慎重に歩いた。
「こんなに簡単に、敷地の外に出られるんだ。なら、逆に入ることもできるってことよね」
入退館システムで監視してても、意味ないじゃない。ジャルスの敷地、入り放題だ。
「はい、出入りはできます。でも、研究センターの敷地内に入れたとしても、寮以外の各建物はすべて入退館システムで管理されていて、IDカードが無いと入れませんから、会社としては問題は無い、という判断なのでしょう」
なるほど、そういうものなんだ。
しばらく行くと、公園の太い遊歩道に合流し、足元も歩きやすくなったので、手を離した。ここはもう、まごうかたなく敷地内公園だ――渡邊さんのお兄さんが、亡くなった場所。
「あ、あの……」やっぱりいい、と言おうと思った。人が死ぬような事故のあった場所へ、真夜中に行くのは気がひける。でも、アドバイザーは躊躇なく進んでいく。今更引き返させるのも、と彼の後に従った。
「この先、少し谷筋におりますが、もうすぐです」
分岐から細い道に入り、階段を少し下りると、急に風のあたりが弱くなった。目の前を小さな白っぽいものが、ひらひらといくつか掠めた。何だろう、と思う間もなくアドバイザーが足を止め、長い腕を頭上にあげた。
声もなかった。
頭上は、何層もの桜の枝が織り重なる天蓋だった。花が、夜空を埋め尽くしている。そして音の無い滝のように、そこから花びらが降ってくる。サララ……サララと、惜しげもなく贅沢に。
さらに上方からは、常夜灯の光が花びら越しに仄明るく照らしている。まるで、現し世(うつしよ)ではないみたい。幽玄な世界に、わたし達は立っていた。
見上げていると、平衡感覚が消えていく。上も下も無い。意識が桜に絡めとられて、花びらの中に埋もれていく。
クラリとバランスを失って、重力のある現実に引き戻された。転ぶ、と思った時、両肩を力強く掴まれて、そのまま後ろに引き寄せられた。
背中越しに、ふわりと柑橘系の香りがした。
あぁ、やっぱり……。この香り、彼の香りだ。
両肩は、掴まれたままだ。後ろから、彼が支えてくれている。そのまま委ねて、桜を見た。今、無駄に動くことも、ありがとう等と言葉を発することさえも、この場には似つかわしくないと思った。ただ、黙って二人で桜を見た。
いい加減に身体が冷え切った頃、名残りはつきなかったけれど帰途についた。
「ありがとう。すごいよかった。これまで見た中で、一番見事な桜だった」
「喜んでいただけて、何よりです」
「ここ、お気に入りのスポット?」
「はい。よく散歩しています」
「一人で?」
「ええ」
「じゃ、招待されたの、わたしが初めてかしら?」
冗談のつもりで聞いた。
「はい」
はにかむように微笑む顔に、しまったと思った。
「そ、そうなんだ。嬉しいわ」
大根役者のように、棒読みの声になった。
帰りもまた、暗いけもの道に入ると手をひかれた。大きな手に、わたしの小さな手が包まれている。
この手は、セクハラから助け出してくれた手だ。荒々しさの片鱗も見せず、酔っ払った虎をソファに沈めた。そのくせ、自分一人の時は、無抵抗に殴られていた。自分を守るためには使われず、人を守るためにだけ使われる手。
ロビーに戻り、時計を見ると二時だった。一時間近くも、見ていたらしい。
「永井さん」
「はい?」
「今日は……具合が悪くなったとき、助けてくださり、ありがとうございました」
長身の体を深く折り、頭を下げる須藤君に、桜はあの時のお礼だったのだと気がついた。
「気にしなくてよかったのに。こんな遅くまでつきあわせちゃって、却って申し訳なかったよね。わたしこそ、ごめんなさい」
「どういたしまして。寒かったから風邪をひかないといいですね。おやすみなさい」
部屋に戻り、コートを脱ぐ。花びらが、何枚か落ちた。丁寧に払ってから、クローゼットにコートを戻す。窓の外の闇を見つめた。風はまだ、窓ガラスを叩いているけれど、心なしか弱くなっている。
あの時、花びらの滝に打たれながら、わたしを支える人を横目に見た。
常夜灯の光が滲み、ぼんやりとした明かりを背にして、彼は艶然と微笑んでいた――ように見えた。能面、無表情が常の人なのに。
気のせいかもしれないけれど、その瞳は桜ではなく、わたしを映しているようで。
なんだか、胸がザワザワした。
桜のせいだ。
桜が、人の心をかきたてている。
指先に灯った熱を、握り締めた。
こんなの、困る……。